「⽻ばたく時、三岐の憧憬」
遠い夏、⼒の限り空に向かって跳びはね、⼤きな⾍取り網を持つ右腕を天⾼く⼿を伸ばした記憶が蘇る。
その網の先には、逃げようと⽻ばたく⼩さなカラスがいた。不思議なことに、そのカラスには⾜が三本あった。
「じいちゃん、珍しいカラスがいるよ!」
コバルトブルーの空から顔を出す太陽の煌めきが視界を狭め、ボクは空中の宝物を⾒失いそうになる。かすかに、網の先端でカラスの⽻根に触れた感覚がした。と同時に逃がしたということもすぐ理解できた。
今も時々、あの場⾯を夢に⾒る。そして、毎回、涙を流した状態で⽬が覚めるのだった。
三本⾜のカラスの捕獲にあと数センチ届かなかった、あの夏。確か、⼩学⼀年⽣の夏休みだった。祖⽗と⼆⼈きりの三岐線電⾞旅で、丹⽣川駅から鴨神社に歩いて訪れた際に、たまたま三本⾜のカラスを⾒つけたのだ。
あの⽇の帰り、終点の⻄藤原駅へと向かう電⾞内で、ボクは三本⾜のカラスを取り逃がした悔しさで泣きじゃくっていた。
「ほら、でっかい太平洋セメントの⼯場がすぐそこに⾒えるぞ。ユウスケも⾒てごらん」
祖⽗はボクの暗い気持ちを紛らわせようと、窓を開けて外の景⾊を指さした。すると屋外の熱気が⾵となって、⾞内に勢いよく⼊ってくる。この⽇、乗客は少なく、窓から⾵とともに⽌めどなく⼊ってくる⼯場の⾳が⾞内に響き渡っていた。
「⾒たくない」
「……鴨神社ならいつでも⾏けるだろ。だから、また、⾏って捕まえればいいじゃないか」
「あんな珍しいカラスが、ホントにまたあそこで⾒つかるの?」
「三岐鉄道の三岐は、三重と岐⾩の頭⽂字からつけられた、と表向きには⾔っているけど、実は⾜が三つに分かれているカラスから名付けられたという噂があるらしいぞ。だから、あそこでよく⾒つかるんじゃないか」
「ホント?」
「さあ」
祖⽗は意地悪な笑みを浮かべた。
「そんなの嘘だ!」
先程よりも増して、⼤声で泣きわめく。
「⾒つかるか、⾒つからないかというのはそんな⼤きな問題じゃないんだよ。⼤事なのは、あそこに三本⾜のカラスがいることを信じられるかどうかだ」
「信じられるに決まってるよ。だって、さっきすぐ近くで⾒たんだもん」
「お前はかわいいな」
祖⽗は、ボクの頭を撫で続けた。
あの夏以来、ボクは三本⾜のカラスを⾒つけられないでいる。
⼤きくなって分かったことだが、あのカラスはサッカー⽇本代表チームのユニフォームにも描かれている伝説の⿃で、ヤタガラス(⼋咫烏)というそうだ。⽇本神話に登場する架空のものとされ、ボクがあの思い出を話しても誰も信じてくれない。
しかし、ボクは三本⾜のカラスを⾒たのだ、この⽬で間違いなく。網の先に触れた感覚もしっかりと残っている。
あの夏の後、祖⽗は病気で他界し、それ以後、しばらく電⾞旅をすることはなかった。ヤタガラスは、ボクにとって祖⽗と最後に過ごした夏の⼤切な記憶でもある。
藤原中学⽣になってから、何度か友だちと三岐線で丹⽣川駅に⾏き、貨物鉄道博物館の観覧ついでに、鴨神社には⾏ってみた。しかし、ヤタガラスはいなかった。
「探してもムダだよ」
ある⽇の中学校の昼休み。クラスメートのトモヨは冷たくボクに⾔った。そういえば、最近トモヨと昼休みに、⼆⼈きりになる機会が多い。
「ユウスケくんが⾒たのは、このカラスでしょ?」
トモヨはタブレットの画像を⾒せながら、確認する。
「ユウスケくん、これはヤタガラスだよ。伝説の⿃で、現実の世界にはいないって」
「ふ〜ん」
「でも、私、鴨神社に⾏ったことないし、どんな場所か興味はあるかな」
「ふ〜ん」
ちゃんと返事をしているのに、どういう訳か、トモヨが怒っている。何か怒らせるようなことをしたか?
「じゃあ、よかったらさ、今度の⽇曜⽇にヤタガラスを⾒付けに鴨神社に⾏くけど、⼀緒に⾏く?」
今度は、急にトモヨが頬を⾚らめ笑っている。今気づいたが、クラスの遠い席に同じ班のヤツらがいて、こっちをしきりに⾒ていた。ひょっとして、トモヨとボクを⼆⼈きりにさせ
ようとしていたのか?
「そんな、まだ付き合ってもいないのに、いきなりデートに誘われてもさ……」
「いや、興味があるって⾔ったから誘っただけだよ。無理に来なくてもいいよ」
「え、何それ?」
「それに、⼆⼈きりじゃないよ。タカヒデも誘っておいたから。ほら、アイツ、わざとらし
く遠くからこっちを⾒てるよ」
急に冷たい表情になってトモヨは「分かった」と⾔った。
鴨神社に⾏くのは、半年ぶりだ。⻄藤原駅でボクらは待ち合わせて、丹⽣川駅までの切符を買う。三岐線は、今どきには珍しい厚紙の切符だ。改札は⾃動ではなく、駅員が⼀⼈ひとりチェックする。祖⽗と過ごした当時と何⼀つ変わらないから、ボクはこの電⾞が好きだ。
お馴染みの駅員のおじさんは「⼤きくなったなぁ」と声をかけてきた。地域に溶け込むこの駅は、いつも変わらずボクの成⻑を⾒届け、包み込んでくれる。
「ねえ、知ってる? この電⾞は昔、東京とか埼⽟を⾛っていたんだよ」
電⾞が⾛り出すと、トモヨは夢中になって話し出す。
「東京? まさか」
「ホントだよ。お⽗さんに聞いたの。⾞両には必ず銘板が貼ってあって、……ほら、あそこ。
『⻄武所沢⾞両⼯場、昭和四⼗⼆年』って書いてあるでしょ」
「ホントだ!」
親がいない電⾞旅は、ワクワクする。
「ヤタガラスを⾒つけてみせる。昔、じいちゃんは信じられるかどうかが⼤事だって⾔ってた」
「ユウスケくんはおじいさんが⼤好きだったんだね」
⼀緒に⾏くはずのタカヒデは今朝、急にお腹が痛いとか訳のわからないことを連絡してきて来なくなり、トモヨと⼆⼈きりになってしまった。
丹⽣川駅を降りると、貨物鉄道博物館の前の踏切を越え、⽥の広がる景⾊を眺めて歩く。
すぐに鴨神社の⼤きな⿃居が⾒えた。境内に⼊ると、屋奉松明の神事がシャッターに描かれた蔵や、⽴派な拝殿が⽬に⾶び込んでくる。
トモヨと⼆⼈で、まずは神様に参拝してから、ボクはいつものように⼤きな⾍取り網を構えて、境内を探す。
「神秘的な、いい場所ね」
トモヨは⻨わら帽⼦をかぶって⾵で⾶ばないように⼿で頭を押さえながらスマホで撮影している。ボクは、境内の⽊々を順番に観察し、ひたすらヤタガラスを追い続ける。
午前中から⾊んな⿃を⾒つけるが、三本⾜のヤタガラスは、いつものように⼀向に⾒つからない。ここにいられる時間は限られているから、ボクは⼀⼼不乱に境内を周り続けた。
「ねえ、少し休まない? 熱中症になるよ」
「先に⼀⼈で休んでて」
「私はもう何度も休んでるから⼤丈夫。それよりユウスケくんも休もうよ」
「ボクは、まだもう少し探すよ」
「昼ごはんも⾷べないでもう四時間もぶっ通しだよ?」
「ありがとう、気持ちだけで⼗分だよ。トモヨさんって優しいんだな」
「そんなつもりで⾔ってるんじゃない!」
急にトモヨが怒り出した。
「え?」
「どうして、そんなにかたくななの?」
そして、トモヨが泣き出す。しかし、ボクには何で泣くのか分からない。
「いや、トモヨさんに迷惑はかけてないからいいかなって思ってさ」
トモヨは涙⽬でボクをにらみ出した。
「もっと迷惑をかけてほしいよ。何でいつもそうやって周りの⼈の意⾒を聴かないで、⾃分⼀⼈だけの世界で⽣きるの?」
「ごめん」
「幻のヤタガラスがユウスケくんにとって、おじいさんとつなぐ⼤切なものなのは分かってる。でも、私は幻じゃなくてここにいるんだよ」
トモヨの⾔葉が胸に刺さる。
「ヤタガラスは幻じゃないよ。ここにきっといる」
「ユウスケくん、いないよ。⽬を覚まして」
「違う! ボクは⼩学⼀年⽣の時、この⽬で⾒たんだ、じいちゃんと⼀緒に……」
「ごめんね。昨⽇タカヒデくんと⼀緒にユウスケくんのお⺟さんと会ったの」
「ボクの⺟さんに?」
「そう。ユウスケくんは塾でいなかったから、こっそりとお⺟さんから聞いちゃった。そもそも⽣前、おじいさんとここへ来たこともないはず」
「それは、違う」
「違わない。それにユウスケくんがヤタガラスを⾒たっていう⼩学⼀年⽣になるよりも前
に、おじいさんは亡くなってるでしょ?」
「まさか。⺟さんの記憶はいいかげんだから……」
「家にユウスケくんの幼い頃のアルバムがあって、写真に全部⽇付が⼊っていたから、調べたよ。ユウスケくんが初めてここへ来たのは、⼩学⼆年⽣の時で、⺟⽅の叔⽗さんとお⺟さんの三⼈で来てた」
「嘘だ」
「記憶をすり替えないで。おじいさんは病気で亡くなったんだよ。だからユウスケくんは何も悪くない。もう、⾃分を責めなくてもいいんだよ」
ボクは動揺して、勝⼿に涙が流れていた。
「おじいさんが亡くなったのが相当つらかったんでしょ? だからヤタガラスを捕まえたらおじいさんが天国で喜んでくれると⾃分に⾔い聞かせた。そしてそのまま記憶を歪めて⼤きくなったんだよ」
幼い頃の修正された場⾯がフラッシュバックする。ボクは祖⽗を病気から助けたかった。
それなのに祖⽗が死んで、幼いボクは⾃分を責め続けた。
(ヤタガラスは、幸せな世界へと導いてくれるそうだ)
記憶に刻まれた声が蘇る。この声は叔⽗? 祖⽗ではなく叔⽗だったのか……?
あふれ出る涙を、もう、⽌められない。
「もう、幻から卒業しようよ。私はユウスケくんと⼀緒に現実の世界で⽣きていきたい!」
トモヨも泣いていた。そして、ボクの胸の中で⼩さくなっている。
トモヨの肩越しから⾒る涙⽬の光景の中に、ぼやけた⼀⽻の⿊い⿃が⽊にとまっていた。
その⿃は⼭を⽬指して空⾼く⾶び上がり、やがて空の⻘さに溶けていく。
あの⿃はきっと、⼤⼈になるために、最初の⼭を越えようとしているのだ。
空⾼く⾶び出せないボクたちは、帰ることにした。丹⽣川駅から電⾞に乗り込むと、⾞内には⻄⽇が差し込み、⽬の前の世界がセピア⾊に染まる。まるで美術館で⾵景画を⾒ているかのような美しい⾞窓をボクたちは無⾔で⾒ていた。
この電⾞に揺られながら、ボクらは少しずつ、⼤⼈になっていくのだろう。
まだボクたちには越えることのできない壮⼤な藤原岳の頂上を⼀瞥すると、ボクはトモヨとようやく⽬を合わせて笑った。
作・グリーンクリエイティブいなべ
撮影・浦田 貴秀